2013年5月4日土曜日

リンカーンの人格的背景を紐解きます。




 リンカーンの大統領としての資質、人格的背景、信条について、Eric Foner氏のインタビュー内容から要約します。こういう本も書いているそうです。(インタビュー内容を要約するだけなので、参考までに・・・)


 ①リンカーンの成長するキャパシティーは異常。

リンカーン暗殺後、大統領を引き継いだアンドリュー・ジョンソンに比べ、別格の成長キャパシティーであった。アンドリュー・ジョンソンは、頑固で人の意見を受け入れようとしない、知的好奇心も少ないが、リンカーンは自分に全て正しい答えを持っていると考えておらず、他人の意見や批判を歓迎した。南北戦争時に行った政策に効果がないと判断すれば、すぐに他の政策を実行するほど柔軟な人間であった。


 ②リンカーンの成長キャパシティーの源は、リンカーンが生まれ育った環境

 リンカーンはケンタッキー州で生まれ、その当時ケンタッキー州は奴隷制を採用していた。両親が反奴隷制主義で、土地の問題も抱えていたので、奴隷制のないインディアナ州に移った。リンカーンは、反奴隷制主義に傾倒していくが、南部人でもあった。また周りの人達には、奴隷制を嫌う人達から、差別的な現状も目にしている。この環境が、様々な利害が対立する状況で、うまく妥協して全体をまとめていく政治家としての資質の源になった。


 ③リンカーンの興隆は、イリノイの興隆→反奴隷制主義確立

 イリノイは1860年代当時、全米で4番目に大きい州で、パイオニア的な場所でもあった。市場革命や経済成長によって急成長した州で、農業や鉄道産業によって栄えた。リンカーンは、鉄道関連の弁護士で、鉄道・運河開発や公教育の整備によって経済成長が促進した事を直に見ているので、公共インフラ開発による経済成長が南部精神の象徴と考えていた。リンカーンは自身も、貧しい中から立身出世をしたので、公共インフラの整備による経済成長こそ南部経済が追及すべき事であって、奴隷制は必要ないと考えるようになった。


 ④リンカーンのメンター、ヘンリー・クレイが妥協の天才だった

 ヘンリー・クレイは奴隷を保有する一家に生まれたが、本人は反奴隷制であった。また妥協の天才であり、クレイの政治姿勢をリンカーンが引き継いだのではないか。リンカーンは、奴隷保有者を悪とはみなさず、合衆国全体の問題であると捉えていたおり、これはヘンリー・クレイの影響ではないか。


 ⑤政治家としてのリンカーン、妥協の天才も奴隷制だけは妥協せず

 共和党には、ラディカルやコンサバティブな人から、様々な利害関係者がおり、全体の利害関係者が納得できるであろう妥協点を常に考えていたが、奴隷制だけは妥協しなかった。常に「あなたは奴隷制賛成かもしれないが、私は奴隷制は間違いであると思う」とリンカーンは言い続けた。奴隷制に対して反対する事は、実践的方向や、奴隷制をどのように対処するかを政治家に与えるものではなく、リンカーンは奴隷制を廃止するために様々なアプローチを試みたが上手くいかなくとも、合衆国全体の奴隷制廃止の執念を燃やし続けた。


 ⑥政治的に可能な政策は何か考え続けた。

 リンカーンは、黒人奴隷を解放し平等の市民にすべきと考えていたが、それを実現できるとは考えていなかった。人種差別は合衆国全体に根強く残っている事を実感していたから。当時リンカーンが考えていた事は、奴隷を解放し、市民として平等な権利を得ることが出来る土地に移るよう奨励する策を考えていた。


 ⑦妥協すべき事と、絶対妥協してはいけない事をわきまえていた。

 奴隷制における政治的な衝突において、合衆国が最大の危機に直面した時も、奴隷制について多少の妥協は許容した。しかし、西方に奴隷制を拡大しようとする動きに対しては、絶対リンカーンは妥協しなかった。「私は、この点については絶対妥協はしない。私の支持者が脅威に晒される可能性があるからね」。リンカーンは、政治家としての自身の核心的原則を守るためなら、戦争すら覚悟した。戦争を望んでいたわけではないが、政治家としてのリスクを取ったのだ。


 ⑧リンカーンは演説の天才、偉大なライターでもあった。

 リンカーンは演説の天才、卓越した言語使いでもあり、これが政治家としてステップアップできた要因。(リンカーン自体は、元々有名ではなく、演説スキルによって注目されるようになった)。リンカーンの発した言葉は、政治のレトリックではない。

 また奴隷解放宣言の際、リンカーンはこのように発言した。

「我々は奴隷を解放する際、出来るだけ穏便に執り行い、暴力的結末は望まない。しかし、一つの例外として、奴隷解放宣言に対する自己防衛としての暴力は決して否定しない。」

 リンカーンは、奴隷解放宣言に対抗する勢力に対して、自己防衛としての反抗を行う権利を認めたのである。リンカーンの言葉は、明確な意思が反映されていた。


 ⑨奴隷制廃止について、徐々に廃止していく方針から、即廃止の方針に変わっていった。

 リンカーンは1850年代は、徐々に奴隷制を廃止し、奴隷所有者には金銭的補償を与える方針であった(ヘンリー・クレイからの影響)。しかし、南部の白人は奴隷制廃止を一切許容できず、黒人自体、自分の住んでいる場所を離れる事も難しかった。そこで、リンカーンは即奴隷制廃止と金銭補償は一切なしの方針を決意する。


 ⑩ラディカルこそ、共和党の政党基盤であると認識。

 リンカーンは、共和党のラディカルで奴隷制廃止論者を共和党の政党基盤と認識し、その基盤を元に支持者を拡大していった。ラディカルの思想について、リンカーンは積極的に耳を傾け、政党基盤を盤石にしようと気を配っていた。


 ⑪弁護士として、憲法が奴隷制を擁護している事実を認識。

 リンカーンは弁護士として出世していったので、憲法が奴隷制を擁護していることを見抜き、憲法が議会や大統領に対して奴隷制廃止の為の行動を保障していない事を認識していた。しかし、戦争については例外で、それが奴隷廃止の為に、リンカーンを南北戦争に駆り立てた理由の一つになった。戦争に勝つには、様々な勢力からの支援が必要になり、奴隷制に対して穏健派を取り込もうとした。穏健派は奴隷制に対して心情的に廃止に賛成したいと考える人達で、戦争に勝つために奴隷制廃止が必要ならリンカーンを支持する可能性があった。リンカーンは、その穏健派に対して、奴隷制廃止は戦争に勝つために必要であると声高に主張し続け、穏健派の支持を取り付けることに成功した。


 ⑫リンカーンは、単なる南北統一を果たす事が目的ではなかった。

 もしリンカーンが、ユニオンを守ることしか興味が無ければ、南部に妥協していたであろう。しかし、リンカーンは、奴隷制を維持したユニオンは守るに値しないと主張し続け、奴隷制を廃止することに執念を燃やし続けた。奴隷制を廃止した上での南北統一が最大の目的であった。南北統一が失敗するリスクを認識しながらも、奴隷制だけは妥協しなかった。


 リーダーが歴史から学ぶべき事は何か?

 社会を変えるためには、正しい政治的リーダーシップと、社会的市民運動の両方が必要になり、どちらかが欠けてもいけないのである。社会的市民運動は、政治的フレームワークなしには瓦解し、社会的市民運動が世論の後押しとなって政治的リーダーシップを促進する。リンカーンのリーダーシップは、奴隷制廃止論者と、大多数の穏健派から支持を得た事によって成り立ったのである。

 オバマ大統領は、リンカーンの違いは批判に対する姿勢である。リンカーンにとって批判は教科書であり、批判から真摯に学ぶことを重視したが、オバマ大統領は、自分を過大評価している節があり、批判を受け入れる姿勢が欠けている。この点が、リンカーンとオバマ大統領の違いではないか。

 リンカーンは、南北戦争時にも領土問題には一切妥協しなかった。戦争が長引けば、大統領として再選されない可能性もあり、選挙のために奴隷制に手を付けないよう共和党のメンバーから忠告されたが、リンカーンは大統領選で敗北するリスクを冒してまで、奴隷制廃止に拘った。南北戦争で北軍の為に戦う黒人に対しての裏切りに等しい行為は、絶対許容出来なかったのである。オバマ大統領は、妥協すべき政策と妥協しない政策について、リンカーン程の明確な原則をもっていないのではないか。

 政治家の皆様、きちんと歴史を勉強しましょう。過去の歴史を、自分の主張として引用するなら、きちんと歴史的解釈を理解しましょうね。


 以上、ポイントを要約してみました。翻訳の専門家ではないので、多少分かりにくい表現もあるかもしれませんが、ご参考までに・・・。あとは興味があればご自身でご覧ください。


 個人的に最も印象的だったのは、40分頃からの権力に対する制約についての話です。リンカーンは奴隷制を廃止する為に、大統領として何をしても良いとは考えていなかった。憲法によって成り立っている現状のシステムを尊重しなければならないと考えており、権力に対する制約を認めていたという部分です。憲法の権力に対する制約を認識しながら、政治的リーダーシップによって、その制約を克服した手腕について、もっと注目されるべきだと思います。日本も、憲法改正の動きが強まってきましたので、スピルバーグの「リンカーン」を見た後は、実際のリンカーンに対する歴史的解釈を勉強することは大切なことだと感じます。


 

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