2013年4月21日日曜日

もし自分の上司がハートマン軍曹だったら、俺達の職場ってフルメタル・ジャケットみたいなものじゃないの?

餃子の王将と言えば、どこでも美味しい餃子を食べれる事で有名。仕事終わった後サラリーマン、ビールと王将の餃子は至福の瞬間です。

 しかし、その美味しい餃子を提供するために、従業員の方が大変な研修を受けている事はあまりに有名。僕も餃子の王将は好きですけど、お店に入って店員さんが「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶してくれると、心の中では「ずっと、この風景」が頭の中で繰り返しリピートしてます。

 それと同時に、フルメタルジャケットの序盤で出てくる過酷なブートキャンプ、ハートマン軍曹のサド愛で暑苦しいシゴキを思い出してしまうのです。

フルメタルジャケットといえば、スタンリー・キューブリック監督の名作であり、戦争風刺コメディ(?)です。あまりに残酷な描写が沢山あるのに、なぜか冷めた目で見れる戦争映画なので、愛する人の為に武器を取って戦おうという気持ちにならないですね。ある意味キューブリックの良心なのでしょうか。

 本作は、ベトナム戦争の海兵隊として厳しいブートキャンプを受ける青年たちの苦悩、葛藤を描きながら、精神が崩壊していく様を描いています。見ていて正直嫌になる人が多いと思いますが、逆に、ブートキャンプを見て感動するような描き方をすれば、それは戦争賛歌になってしまうので、訓練描写を過剰なほど凄惨に描く必要があったのかもしれません。

 フルメタルジャケットの逆の方向で作った映画といえば、ポール・ヴァ―ホーベンのスターシップ・トゥルーパーズでしょう。スターシップ・トゥルーパーズは、ナチスドイツのプロパガンダ映画である医師の勝利のパロディーであり、訓練シーンもあるのですが、人間が狂っていく描写は皆無で、主人公が一度どん底に転落するが、最終的にヒーローになって、元恋人のチャーリー・シーンのワイルドシングスすら手に入れるので、典型的なハリウッドエンディングの映画です。

 もちろん、ポール・ヴァ―ホーベンも良心に溢れた名監督なので、戦争に参加したいと思う映画ではありません。



 
 これは一番最初のシーンで、訓練所で海兵隊志願兵を徹底的にシバキ上げている風景。ハートマン軍曹が大声で喝を入れ続け、訓令兵は大声でハートマン軍曹のシゴキに答える。もうサンデーモーニングのおじいちゃんが「喝ッ!!」って言うレベルではないです。

 なぜ、ここまで厳しい訓練が必要なのか。それは、海兵隊とは軍隊の中で最も死亡率が高く、並大抵の精神力では戦力として使い物にならないため、通過儀礼による洗脳のようなプロセスが必要になるからです。通過儀礼とは、ある一定の年齢に達した人間が、新たな環境に身を置き、厳しい訓練に耐えて、今までの甘い意識を捨て、新しい強い自分を手に入れることです。

 他国に侵略する場合、軍事攻撃は海兵隊から突撃します。映画でいえば、プライベート・ライアンのノルマンディー上陸作戦がイメージしやすいでしょう(映画の中では、キャラクターはどうやら海兵隊所属ではないようですが・・・)。

 敵対勢力の砦を攻略する為に突撃する海兵隊は、相手から必死の反撃を受けます。砦を防衛するために決死の覚悟で反撃し、長期戦に持っていくためゲリラ戦に持ち込みます。攻撃側の戦力が圧倒的に上回っていても、地の利があるためゲリラ戦には苦戦が避けられません。圧倒的戦力差がありながら、アメリカ海軍が苦戦した硫黄島の戦闘などは、その具体例と言えます。ベトナム戦争において、アメリカが敗北した理由も、ベトコンのゲリラ戦で根性比べになってしまい、アメリカが根負けしたと言える。

 死亡率が最も高く、ゲリラ戦等の長期戦に晒される可能性があり、海兵隊は狂うぐらいの精神的タフさが必要になるのです。

 餃子の王将におけるスパルタ研修も、同じ論理で行われていると考えるべきでしょう。ワカモノを厳しい訓練に晒し、甘い意識や弱い自分を殺すことによって、現場で使える人材に鍛えていくのです。しかし、離職率が高いのは、海兵隊において死亡率が高い理由と同じではないか筆者は考えている。

 このスパルタ研修の是非は、この記事では問わない。現実として、なぜスパルタ訓練が必要になるのか、フルメタルジャケットの訓練シーンに合わせて考察しました。

 しかし、この論理は戦争で他国を侵略する場合に必要な通過儀礼なので、これと同じ論理が飲食店や小売店等で成り立っていたとしたら、それが社会的に許容されるのか、話は別になってくるでしょう。

 通過儀礼による自分殺しは、精神的な負担が大きく、鬱病等の健康リスクが大きすぎる。企業が労働者を低賃金でコキ使って、体を壊して退職した場合、健康保険や生活保護で労働者を保護する必要が出てくるが、その原資は、国民の税金に他ならない。

 労働者に厳しい訓練を強いて、過酷な労働環境で働かせる事は、競争に勝つために国家システムの社会保障に甘えていると言う解釈も成り立つからだ。

 ブラック企業のスパルタ教育に関して、今回は通過儀礼的な概念から分析を行ったが、もちろん、これが現実の世界に当てはまると主張するつもりはない。しかし、ブラック企業、スパルタ教育といった曖昧な概念で批判するのは、おそらく問題解決に一切貢献しないと思われる。

 飲食業や小売業等の労働環境において、問題自体を因数分解し、因果関係を分析する冷静な議論が必要。しかし、冷静な議論が成り立ちにくい理由は、スパルタ研修自体が基本的に閉鎖的な場所で行われ実態を理解しずらく、実際に研修を受けた人たちにとって余りに辛い経験だった為おそらく自分の経験を冷静に語るのが難しいのかもしれない。

 
 

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